博論執筆、最後の苦悩

先日ようやく博士予備審査論文を書き上げました(現在審査の認定待ち)。

審査を通してまだまだ修正するとは思うのですが、とりあえず一旦書き上げたということで、脳内にへばりつく凄い研究者の考えから脱却しようともがいていたお話を書いておこうと思います。

最初に前置きをしておくと、僕の所属していた大学院は学際領域(学問と学問の間を扱う学問)という少し特殊なところです。僕の場合は、教育工学と歴史学と認知心理学を混ぜたような領域を扱い、「歴史を現代に応用する学習方法の開発」をテーマにした博論を書いています。今後の審査で変わる可能性は大いにありますが、現状をざっくり要約すると、以下のような感じです。

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1章:背景
歴史を現代に応用する力ってすごいメリットがあるし、
社会的にも教育的にも最近注目されているんだよ。
でも、どうやったら育てられるかは解明されていないんだよ。
だから、僕が歴史を現代に応用する力を育てる効果的な学習方法を開発するよ。

2章:研究の視座
でもどうやったらいいんだろうね。
認知心理学と歴史学習の先行研究を調べて大枠を考えたけどまだ足りないよ。
それを補うのにゲーミング・シミュレーションがとても良さそうだよ。
ということで、歴史を現代に応用する力を育てる効果的なゲームを作るよ。
ちなみに、さっきから「歴史を現代に応用する」って言っているけど、論理的には
①歴史上の因果関係を、現代の問題の原因を分析するのに応用する
②歴史上の色んな解決法を、現代の問題に対する色んな解決法を作るのに応用する
っていう2つに分解できるので、それぞれで効果的なゲームを開発するよ。

3章:実証研究1
歴史上の因果関係を、現代の問題の原因を分析するのに応用するゲームAを開発したよ。高校生を対象に評価したらちゃんと効果が確認できたよ。

4章:実証研究2
歴史上の色んな解決法を、現代の問題の解決法を作るのに応用するゲームBを開発したよ。高校生を対象に評価したらちゃんと効果が確認できたよ。

5章:結論(と考察)
メタな視点からゲームAとゲームBを統合して、歴史を現代に応用する力を育てる効果的な学習方法のモデルを作ったよ。
これで色々な領域にこんな良いことがあると思うよ。
まだまだ課題はあるけど、今後はこんな展望を持っているよ。
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さて、最初に研究の進め方を整理しておきます。一般的に研究は広い領域から始まり、徐々に領域を狭めて的を絞り、まだやられていないことを見つけて行います。そして、確実な方法で開発したり、実験したり、調査したりして、研究知見を生み出ていくわけです。最後に既存の研究領域でその研究知見がどういうインパクトを与えるかを考察します。

通常の研究だとこれで良いのですが、僕の大学院における博論の場合は3章と4章の実証研究1と実証研究2の結果から1つメタな結論を出して、うまく研究領域に還元しないといけません。つまり、5章の結論と考察では、A+Bを出すだけじゃダメで、X(A+B)みたいに1つメタなレベルにあげて、その上で自分の研究領域に位置づけて考察しないといけないわけです。

そしてこれは僕の主観ですが、パラダイムシフトを起こしたような凄い研究者は最後の「考察」の部分が極めてエレガントです。彼らはコンパクトで確実な研究知見でありながら、広く丁寧に整理した自分の研究領域に強烈なインパクトを与えていたり、隣接領域にもその知見が転用されたりしています。例えば、教育学者のデューイの ”Learning by doing” という考えは教育界ではもはや当たり前になっていますし、ポイント制のゲーミフィケーションも元を辿れば教育工学者のスキナーのプログラム学習や即時フィードバックの考えです。はたまた文化人類学者のレイヴの状況論という考えは、認知心理学的な教育観に対して大幅な方向修正をかけています。

もちろん、領域を絞っていけば誰もしていない領域はある訳で、「○○の領域ではやられていないんでやりました!」とか「もっと細かい知見が出ました!」で研究としてはOKです。でも、その研究知見を徐々に抽象化していくと、パラダイムシフトを起こした研究者が言っていることや、彼らが解明した要素と何も変わってないことが多々あります。例えば、「学習では経験することが大事だ!」はデューイだし、「やったことに対してポイントを与えると学習のやる気が出る!」はスキナーの延長だし、「学習には環境とか状況を考えるのが大事なんだよ」はレイヴの延長なわけです。

要するに、コンパクトで確実な研究知見を徐々に抽象化していき、考察で既存の研究領域に位置づけるとどうしてもパラダイムシフトを起こした研究者の2番煎じになりやすいんです。何度も言いますが、もちろんそこまで抽象度を上げる必要はないですし、それで研究の価値が決まるわけではありません。例えば、”Learning by doing”が抽象度100だとして、抽象度60くらいでオリジナリティが出ればすごいと思いますし、抽象度10で2番煎じになる研究に対して批判しているわけではありません。ただ、抽象度を落とさないと自分の研究の新規性を確保できないのが僕個人としては何かすごく悔しかったんです。研究者のプライド的に。

僕の場合、「歴史的類推を現代の問題解決に応用する力を育成する学習方法の開発」が研究テーマで、もちろんこの学習方法を開発すれば研究としては良いのかもしれません。ただ、おそらく研究者として最も熱量のある博士論文で、デューイとかスキナーとかレイヴの知見を超えるようなポテンシャルを持つ抽象的な研究知見を出せなければ、今後もう一生彼らを超えることはできないだろうなと漠然と感じていました。

しかも、彼らの時代と比べてインターネットも発展していて論文の収集速度も格段に上がっています。それに、僕は「歴史」というポテンシャルの高い情報をベースに、「学習の転移」というこれまたポテンシャルの高い現象を扱っているので、たぶんデューイもスキナーもレイヴも、もっといえばヴィゴツキーもピアジェもブランスフォードもブルーナーも見つけられなかった知見が潜在的に隠されている確信もありました。

こんなお膳立てがあるにも関わらず、彼らを超えるような抽象度100の思考とか学習方法とか、教育の新しい方向性を切り開けるポテンシャルのある発見が出せなければ、それはもう根本的に研究者としてのセンスがないんじゃないだろうか。そんな不安をずっと抱えていました。

それからは結論で学習方法を出すたびに、それを抽象化(モデル化)してパラダイムシフトを起こした研究者の知見と比較するようになりました。ところが、毎回「これは結局○○だよな」という事態になってしまう。なぜなのかとずっと考えていると、結局、僕は彼らの思想というか思考枠組みの中でこれまで研究してきたので、彼らの思考枠組みから抜け出すことができなかったんだと気付いたんです。「じゃあ、まっさらな頭で考えればええやん」と思われがちですが、一度染み付いた思考枠組みから抜け出すのは非常に難しく、苦々しく感じる期間が3ヶ月くらい続きました。

今もそこから抜け出せているかはわからないんですが、そんな時に光明を与えてくれたのが、高校でやった実践の一次経験でした。僕は高校生に行った実証研究2つを柱に博論を書いているのですが、分析上、彼らの活動中の音声データを全部文字おこししていたんですね。で、ひたすらそれを読みつつ、彼らの表情とか感想とか普段の教室の表情とか彼らとのやり取りを思い出したり、そもそも自分は現代において何でこんな研究をやろうと思ったのかを思い出したりしているうちに、何かぼんやりと見えてきたものがあったんです。そしてそのぼんやりしたものをもとに自分の論文の結論を読み直すと、「あ、ここはこうじゃない」とか「この研究者の言っていること、何かここが足りていない」とかが見えるようになり、まだまだ不十分だという自覚はあるものの、何とかそれなりに納得できる結論を書くことができました。

もちろん自分の経験則だけで研究を書くのは御法度で、文献とか研究レビューを徹底期にするのは必須事項です。ただ、特に教育系の研究の場合、パラダイムレベルの知見を出す本当に最後の一歩には、実践の風景の記憶とか、生徒とのインタラクションとか、教室の雰囲気とか、現代の社会とか、その中の自分とか、そういう原体験がとても重要なんじゃないかと思いました。

まだ博士号取ってないのでこれが最後の苦悩かも怪しいし(笑)、たぶんこの苦悩はまだまだ続くし、そもそも抽象度30くらいで2番煎じになっている博論になるかもしれないのにこんなことを書くのもどうかとも思いましたが、鮮度が落ちないうちに書き留めておきました。博論を書く人の役に立つとは思わないけど、暇つぶしにでも読んでもらえれば幸いです。

ちなみに僕の大学院は学際領域ということもあり、博論の審査には分野の違う先生が5人ついていただくことになっています。どんなアカデミックなやり取りがされるのか修士の頃からとても楽しみにしてきたので、こちらはこちらでしっかり準備を進めて、博士号取得に向けて頑張りたいと思います。

おしまい。