「問題の模倣」からの脱却

最近、研究の「新規性」を確保する際に意識していることがあります。それは、無意識的に他人が提唱した問題を模倣しないということです。フランスの社会学者ガブリエル・タルドが1890年に出した『模倣の法則』に、こんな一節があります。

ある問題の模倣的普及とその問題の解決法の模倣的普及は、はっきりと区別しなくてはならない。ある解決法がこちらで普及し、別のところでは別の解決法が普及しているからといって、どちらにも同じ問題が普及していたことには変わりがない。(中略)毎日のように新聞が提起している何らかの観念について、大衆は「これに賛成する」側と「これに反対する」側という二つの陣営に分けられる。しかし両陣営とも、そのとき提起され、押しつけられたこの問題にしか関心をもとうとはしないのである。

「問題の模倣的普及」は研究の世界でもよく見られます。例えば、「21世紀型スキルを伸ばせられていないのは問題である」とか、「グローバル人材が育成できていないのは問題である」とかです。

「問題の模倣的普及」は、同じ問題意識を持った研究者が増えるメリットやその領域の議論を深めさせるメリットがあるといえます。しかし一方で、「新規性」が必要な研究者にとっては問題を模倣しないメリットもあります。

既存の問題を模倣した場合、主に新規性を出せる部分は「解決方法」になります。そのため、既存の数多くある解決方法にはない別の新規性を持った解決方法を考える必要があります。ところが、問題の模倣を行わず、重要かつ新しい問題を見出すことで新規性を獲得できた場合、解決方法自体がない場合が多いため、自由に解決方法を考えるだけで新規性を出せることがあります。

私の専門である教育工学の世界では、節目節目で「これまでの問題の模倣」を脱却する時期がありました。例えば、行動主義に対する認知主義の登場、認知主義に対する状況論の登場などです。当然ですが、前提レベルで新しい問題が出された後は、新規性のある解決方法が量産できるので、その領域の研究が大きく進むことになります。

ところが最近、「自分は無意識的に問題を模倣していないか」と思うことがあります。偉大な研究者に、学会に、政治組織に、「これは取り組むべき重要な問題だ!」と先手を打たれると、無意識的に「じゃあ、その解決方法を考えるか」となりがちです。逆に、「いや!それは重要じゃない!」と反論しても、タルドのいう「問題の模倣」からは脱却できません。

では、どうすれば「問題の模倣」から脱却できるのでしょうか。タルドはこんな一節を残しています。

ただ少数の非社交的な人々や部外者だけが潜水艦に乗り込み、社会という大海原の底に潜って、まったく現実性のない奇妙な問題についてあれやこれやと思いをめぐらしている。そして、彼らこそが明日の発明者なのである。

人はおそらく無意識レベルで他人が提唱した「問題の模倣」をしてしまうのだと思いますが、できるだけ自覚的に「問題の模倣」から脱却し、自分の専門領域で新しい問題を提案できるよう、非社交的になって奇妙な問題について考える時間を増やしたいなと思います。

おしまい。

創造的な開発研究につながる支援原理の作り方

開発研究をはじめてまだまだ6年目ではありますが、最近、開発研究の「支援原理」の作成に苦労している人が周りに多いので、僕なりの支援原理の作り方を書いておこうと思います。

■開発研究と支援原理
通常、研究は新規な疑問を探し、ある方法を使ってそれを解決する流れを取ります。仮に疑問を「歴史上の庶民の生活を実感させる方法とは何か」とします。開発研究では開発物自体にも研究上の新規性が必要なため、この方法の部分をかなり創造的にする必要が出てきます。

一般的な教育工学の開発研究の場合、ある疑問に対し、その解決に効果的だと考えられる研究上の根拠、「支援原理」を用いて開発を行っていきます。例えば仮に、「ロールプレイをすると演じている役の気持ちに共感できるようになる」という心理学的な知見があった場合、これを引用して歴史のロールプレイができる支援原理を作り、それに沿って開発物を作って効果を確かめるという流れになります。

 ■アナロジー が持つ創造性に対するトレードオフな側面
ここでポイントになるのが、この支援原理には一種のアナロジー(類推)が絡んでいるということです。アナロジーは創造性を高めるという研究も多くあることから、支援原理の作成の際にどんな研究知見を根拠にするかが開発研究の創造性に影響を与えると考えられます。

ただし、アナロジーと創造性の間にはトレードオフな関係があることがわかっています。Gomes et al.(2006)は、類推における創造性は「新奇性」(novelty)と「有用性」(usefulness)の2つから構成されるものだとした上で、複数のアナロジーを通して作られたものの「新奇性」と「有用性」を測定しました。その結果、近い領域で構造が類似しているものは有用性が高い一方で新奇性が低くなり、離れた領域で構造が似ていないものは新奇性が高い一方で有用性が低くなるという研究結果が出ました。

つまり、他研究を引用して支援原理を作成することを仮にアナロジーと捉えた場合、新奇性を上げるにはある程度領域の離れたところから研究知見を持ってくる方が良いといえます(もちろん、有用性を高めるための微調整も必要になるので、構造は類似させた方が良いというのが僕の印象です)。

■離れた領域の研究知見を集める方法
ところが、この「離れた領域」の研究知見を探すのは難問です。なぜなら疑問を探す場合は自分の研究領域を調べれば良いので、例えば「歴史 学習」などで検索して引っかかった論文を調べていけばいいわけですが、「離れた領域」はどう調べれば良いのかわかりにくいからです。

これを克服する方法の1つとしては、普段から離れた領域の知見や現象をインプットしておき、アナロジーのストックとしてためておく方法が挙げられます。例えば、歴史学習とは領域が離れている生物学の本を読んでみたり、文化人類学の本を読んだり、社会学の本を読んだり、プログラムのアルゴリズムの本を読んだりしておくと、その知見が支援原理となって、創造的な開発物が生まれるかもしれません。

もう1つの方法は、自分とは異なる領域の研究者と出会うことです。これはとても簡単なように見えますが、実は自分と離れた領域の研究者と話をする機会は日常的にはほとんどありません。そのため、自分の領域の学会にばかり行かず、たまには他の学会に参加してみたり、普段は行かない授業やセミナーや研究会に参加してみることも必要かもしれません。

一見すると、このように離れた領域の研究知見を吸収するのはムダな時間に見えるかもしれませんが、この時間を確保しないと一般的な支援原理しか思いつかず、陳腐な開発研究になってしまうリスクが出てきます(実際、歴史学習×ロールプレイの研究はすでにやられています)。

創造的な開発研究につながる支援原理を探すには、少し遠回りには感じるものの、直接的に自分の研究とは関係ない研究知見を吸収しようという知的好奇心を持ち、自分の開発研究に活かせないかを日頃から考える方が案外近道なのかもしれません。

…と書いていたところで、最近僕もそういう時間が取れていないなと自覚したので、久しぶりに全然歴史学習と関係ない本でも読もうかなと思います笑

 

参考文献:Gomes, P., Seco, N., Pereira, F. C., Paiva, P., Carreiro, P., Ferreira, J. L. & Bento, C. (2006) The importance of retrieval in creative design analogies. Knowledge-Based System, 19(7): 480-488.

博論執筆、最後の苦悩

先日ようやく博士予備審査論文を書き上げました(現在審査の認定待ち)。

審査を通してまだまだ修正するとは思うのですが、とりあえず一旦書き上げたということで、脳内にへばりつく凄い研究者の考えから脱却しようともがいていたお話を書いておこうと思います。

最初に前置きをしておくと、僕の所属していた大学院は学際領域(学問と学問の間を扱う学問)という少し特殊なところです。僕の場合は、教育工学と歴史学と認知心理学を混ぜたような領域を扱い、「歴史を現代に応用する学習方法の開発」をテーマにした博論を書いています。今後の審査で変わる可能性は大いにありますが、現状をざっくり要約すると、以下のような感じです。

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1章:背景
歴史を現代に応用する力ってすごいメリットがあるし、
社会的にも教育的にも最近注目されているんだよ。
でも、どうやったら育てられるかは解明されていないんだよ。
だから、僕が歴史を現代に応用する力を育てる効果的な学習方法を開発するよ。

2章:研究の視座
でもどうやったらいいんだろうね。
認知心理学と歴史学習の先行研究を調べて大枠を考えたけどまだ足りないよ。
それを補うのにゲーミング・シミュレーションがとても良さそうだよ。
ということで、歴史を現代に応用する力を育てる効果的なゲームを作るよ。
ちなみに、さっきから「歴史を現代に応用する」って言っているけど、論理的には
①歴史上の因果関係を、現代の問題の原因を分析するのに応用する
②歴史上の色んな解決法を、現代の問題に対する色んな解決法を作るのに応用する
っていう2つに分解できるので、それぞれで効果的なゲームを開発するよ。

3章:実証研究1
歴史上の因果関係を、現代の問題の原因を分析するのに応用するゲームAを開発したよ。高校生を対象に評価したらちゃんと効果が確認できたよ。

4章:実証研究2
歴史上の色んな解決法を、現代の問題の解決法を作るのに応用するゲームBを開発したよ。高校生を対象に評価したらちゃんと効果が確認できたよ。

5章:結論(と考察)
メタな視点からゲームAとゲームBを統合して、歴史を現代に応用する力を育てる効果的な学習方法のモデルを作ったよ。
これで色々な領域にこんな良いことがあると思うよ。
まだまだ課題はあるけど、今後はこんな展望を持っているよ。
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さて、最初に研究の進め方を整理しておきます。一般的に研究は広い領域から始まり、徐々に領域を狭めて的を絞り、まだやられていないことを見つけて行います。そして、確実な方法で開発したり、実験したり、調査したりして、研究知見を生み出ていくわけです。最後に既存の研究領域でその研究知見がどういうインパクトを与えるかを考察します。

通常の研究だとこれで良いのですが、僕の大学院における博論の場合は3章と4章の実証研究1と実証研究2の結果から1つメタな結論を出して、うまく研究領域に還元しないといけません。つまり、5章の結論と考察では、A+Bを出すだけじゃダメで、X(A+B)みたいに1つメタなレベルにあげて、その上で自分の研究領域に位置づけて考察しないといけないわけです。

そしてこれは僕の主観ですが、パラダイムシフトを起こしたような凄い研究者は最後の「考察」の部分が極めてエレガントです。彼らはコンパクトで確実な研究知見でありながら、広く丁寧に整理した自分の研究領域に強烈なインパクトを与えていたり、隣接領域にもその知見が転用されたりしています。例えば、教育学者のデューイの ”Learning by doing” という考えは教育界ではもはや当たり前になっていますし、ポイント制のゲーミフィケーションも元を辿れば教育工学者のスキナーのプログラム学習や即時フィードバックの考えです。はたまた文化人類学者のレイヴの状況論という考えは、認知心理学的な教育観に対して大幅な方向修正をかけています。

もちろん、領域を絞っていけば誰もしていない領域はある訳で、「○○の領域ではやられていないんでやりました!」とか「もっと細かい知見が出ました!」で研究としてはOKです。でも、その研究知見を徐々に抽象化していくと、パラダイムシフトを起こした研究者が言っていることや、彼らが解明した要素と何も変わってないことが多々あります。例えば、「学習では経験することが大事だ!」はデューイだし、「やったことに対してポイントを与えると学習のやる気が出る!」はスキナーの延長だし、「学習には環境とか状況を考えるのが大事なんだよ」はレイヴの延長なわけです。

要するに、コンパクトで確実な研究知見を徐々に抽象化していき、考察で既存の研究領域に位置づけるとどうしてもパラダイムシフトを起こした研究者の2番煎じになりやすいんです。何度も言いますが、もちろんそこまで抽象度を上げる必要はないですし、それで研究の価値が決まるわけではありません。例えば、”Learning by doing”が抽象度100だとして、抽象度60くらいでオリジナリティが出ればすごいと思いますし、抽象度10で2番煎じになる研究に対して批判しているわけではありません。ただ、抽象度を落とさないと自分の研究の新規性を確保できないのが僕個人としては何かすごく悔しかったんです。研究者のプライド的に。

僕の場合、「歴史的類推を現代の問題解決に応用する力を育成する学習方法の開発」が研究テーマで、もちろんこの学習方法を開発すれば研究としては良いのかもしれません。ただ、おそらく研究者として最も熱量のある博士論文で、デューイとかスキナーとかレイヴの知見を超えるようなポテンシャルを持つ抽象的な研究知見を出せなければ、今後もう一生彼らを超えることはできないだろうなと漠然と感じていました。

しかも、彼らの時代と比べてインターネットも発展していて論文の収集速度も格段に上がっています。それに、僕は「歴史」というポテンシャルの高い情報をベースに、「学習の転移」というこれまたポテンシャルの高い現象を扱っているので、たぶんデューイもスキナーもレイヴも、もっといえばヴィゴツキーもピアジェもブランスフォードもブルーナーも見つけられなかった知見が潜在的に隠されている確信もありました。

こんなお膳立てがあるにも関わらず、彼らを超えるような抽象度100の思考とか学習方法とか、教育の新しい方向性を切り開けるポテンシャルのある発見が出せなければ、それはもう根本的に研究者としてのセンスがないんじゃないだろうか。そんな不安をずっと抱えていました。

それからは結論で学習方法を出すたびに、それを抽象化(モデル化)してパラダイムシフトを起こした研究者の知見と比較するようになりました。ところが、毎回「これは結局○○だよな」という事態になってしまう。なぜなのかとずっと考えていると、結局、僕は彼らの思想というか思考枠組みの中でこれまで研究してきたので、彼らの思考枠組みから抜け出すことができなかったんだと気付いたんです。「じゃあ、まっさらな頭で考えればええやん」と思われがちですが、一度染み付いた思考枠組みから抜け出すのは非常に難しく、苦々しく感じる期間が3ヶ月くらい続きました。

今もそこから抜け出せているかはわからないんですが、そんな時に光明を与えてくれたのが、高校でやった実践の一次経験でした。僕は高校生に行った実証研究2つを柱に博論を書いているのですが、分析上、彼らの活動中の音声データを全部文字おこししていたんですね。で、ひたすらそれを読みつつ、彼らの表情とか感想とか普段の教室の表情とか彼らとのやり取りを思い出したり、そもそも自分は現代において何でこんな研究をやろうと思ったのかを思い出したりしているうちに、何かぼんやりと見えてきたものがあったんです。そしてそのぼんやりしたものをもとに自分の論文の結論を読み直すと、「あ、ここはこうじゃない」とか「この研究者の言っていること、何かここが足りていない」とかが見えるようになり、まだまだ不十分だという自覚はあるものの、何とかそれなりに納得できる結論を書くことができました。

もちろん自分の経験則だけで研究を書くのは御法度で、文献とか研究レビューを徹底期にするのは必須事項です。ただ、特に教育系の研究の場合、パラダイムレベルの知見を出す本当に最後の一歩には、実践の風景の記憶とか、生徒とのインタラクションとか、教室の雰囲気とか、現代の社会とか、その中の自分とか、そういう原体験がとても重要なんじゃないかと思いました。

まだ博士号取ってないのでこれが最後の苦悩かも怪しいし(笑)、たぶんこの苦悩はまだまだ続くし、そもそも抽象度30くらいで2番煎じになっている博論になるかもしれないのにこんなことを書くのもどうかとも思いましたが、鮮度が落ちないうちに書き留めておきました。博論を書く人の役に立つとは思わないけど、暇つぶしにでも読んでもらえれば幸いです。

ちなみに僕の大学院は学際領域ということもあり、博論の審査には分野の違う先生が5人ついていただくことになっています。どんなアカデミックなやり取りがされるのか修士の頃からとても楽しみにしてきたので、こちらはこちらでしっかり準備を進めて、博士号取得に向けて頑張りたいと思います。

おしまい。

研究者として枯れないために

僕は博士課程に上がると決心した時、不安に感じていたことが1つだけありました。それは「お金が稼げない」とか「人とのキャリアの足並みがずれる」とかではなく、「いつか研究者として枯れないか」という不安です。

例えば、いつまでも過去の栄光にしがみついて次第に重箱の隅をつつく研究者になったり、色んな領域に手を出して軸のぶれた研究者になったり、1年でできる目先の研究に追われて重厚な研究群を構築できない研究者になってしまうんじゃないかと不安に思っていました。

どんなに情熱に溢れ、素晴らしい博論を書いたとしても、それは大学院時代の5年間レベルの産物であって、偉大な研究者が残した何十年レベルの重みに比べたら比較にならないことは明白です。つまり、偉大な研究者になりたいなら、博士課程「後」に研究者として枯れないための方法を構築しておかないといけないと思ったのです。

そうやって山内研の博士課程で3年過ごしているうちに、ようやくその鍵らしきものが5つ見えてきたので、長くなりますが書きたいと思います。


(1)積み立てる意識で研究群をまとめあげていく
これは博士論文の構造を考えている段階で一番強く感じたことです。僕の所属している研究室では、博論を書く際に少し特殊なスキルが必要になります。それは、大学院時代に行ったAとBの研究を水平的につなげたり、AからBに掘り下げていくイメージでつなげるのではなく、AとBの研究群を使って一段レイヤーが上の研究Cを作るスキルです。これが実はかなり難しく、大目的をブレイクダウンしてAとBの小研究を作るのですが、その小研究の結果の足し算以上の大結果を作ることが要求されているのです。演繹思考だけでも帰納思考だけでもない、この積み立てていくような特殊な思考で研究群をまとめあげていくことが、偉大な研究者になれるかどうかの1つの鍵になるんじゃないかと踏んでいます。

(2)20%は研究外のものに接して「特殊な視点」を身につける
これは博士課程2年の頃に感じていたことなのですが、実は自分の専門領域ど真ん中の先行研究レビューは、頑張れば院生時代に終えることができます。実際僕の場合、「歴史学習」や「歴史的思考力」に関する論文は国内外含めて200本くらい読みましたが、質の良い論文は大体押さえた印象があります。ところが、先行研究の全体像がわかっても、そこから出てくるリサーチ・クエスチョンが鋭くなるとは限りません。この原因は「視点の固定化」にあります。つまり、どれだけ論文を読んでも今までと同じような切り口しか見えなくなるという感覚です。こういった視点の固定化を防ぐ方法として、研究時間の20%は歴史学習や教育学以外の学問の本を読んだり、研究対象である歴史を学習している生徒の観察に行ったりしていました。実際、僕が次にやろうと思っている研究は系統学や文化人類学や高校生の生活スタイルについての話から色濃く影響を受けていて、ようやく自分の思考の殻を一つ破れた気がしています。この殻を破るのに実に1年半程かかりましたが、こういった活動の余裕は確保しないといけないなと痛感しているところです。

(3)心地よいエコシステムに閉じない
最近はTwitterやFacebookなどを使って色々な人に情報発信ができるようになったことで、人から研究を肯定的に評価されたり、コラボレーションの機会が増えて研究者の存在価値を見出したり、自己効力感が高まることが多くなってきていると思います。それはそれで結構なことなのですが、自己効力感が高まることに快感を感じすぎて専門とずれたことに力を注ぐようになったり、自分にとって心地良いエコシステムに閉じこもることで批判が少なくなり、研究の強度が弱くなる危険性もあるように感じています。例えば博士課程3年の頃には、普段行き慣れている学会とは毛色の違う学会に行ったのですが、いつもとタイプの違う批判を受けて研究自体がかなりタフになった印象があります。こういった、一見心地よくないエコシステムは屈強な研究にするのには必要な環境であり、研究者としての視野を広げる意味でも不慣れな領域に足を突っ込む勇気が必要だと感じています。

(4)社会との差分を0にしない
研究者の存在価値は、社会で働いている人が持っていない知識や見方を持っている点にあります。だからこそ、研究者がコンサルタント的なことを行うこともできますし、僕も企業や学校からそういう依頼を受けたことがあります。ただし、同時にここで重要なことは、研究者である自分と社会との差分を0にしてはいけないということです。研究が生まれるスピードと社会が知見を吸収していくスピードはいまや完全に非対称な状態です。そのため、常に現在の社会から「2歩先」くらいを見据えた研究構想を立てる必要があるように感じています。これは、指導教官を見ていて強く感じたことです。

(5)チームで研究できるようにする
研究者として枯れないための最後の鍵は、チームで研究できるようにすることです。今の時代、高クオリティの研究を行うには一人の研究者では限界があります。例えば、僕は歴史の学習方法については専門性がありますが、学校での授業を兼任することは難しいですし、高度な歴史学的知識も持っていませんし、歴史の史料の著作権も持っていませんし、大規模なシステムやデータも持っていません。特に開発研究の場合、これらをうまく連動した研究を展開することが研究のレベルアップには必要になっています。そのため、前回の山内研ブログ【研究発表のこだわり】チーム感を作るでも書きましたが、自分の研究の強みを意識し、複数の強みを持つ人が集まった時にチームでの研究が想像できるようなビジョンを提示できることは非常に必要なスキルになってくると考えています。

と、つらつらと書いてきましたが、果たしてこれで研究者として枯れないかどうかはわかりませんので、つまんない研究者になりかけていたらビシバシ叱って下さい(笑)

さて、最後になりましたが、山内研の博士課程、とても楽しかったです。何だかんだんで「研究が楽しい」と思い続けられることが、研究者として枯れないための一番の秘訣かもしれません。

また、上記のように研究者として大事なことを考える機会もたくさんいただきました。
お世話になったみなさま、本当にありがとうございました。
今後も面白い研究をしていきますのでどうぞよろしくお願いします!

研究発表の場でチーム感を作ることの重要性

2012年は、教育工学系の学会、社会科教育系の学会、教育メディア系の国際会議、大学教育系の学会、歴史学者が集まる研究会、高校の副校長が集まる研究会、社会人が集まる研究会など、とても多様な立場の人に向けて「歴史を現代に転移させる方法や教材」について研究発表をする機会がありました。

今回はこのような経験を振り返り、自分の研究を多様な人に伝えることに重点を置いた研究発表のこだわりを書き留めておきたいと思います。テーマはずばり「研究発表の場でチーム感を作ることの重要性」です。

■なぜ研究発表の場で「チーム感」を作ることが重要なのか
ある学会で他人の発表を聞いていた際のことでした。その学会の、おそらく重鎮クラスの教授がその発表者に対して以下のような質問をしていました。

「あなたの研究知見は面白い。ただ、それは○○学会にどのように貢献しうる知見なのか?」

この質問は「研究」という活動においては非常に重要なものです。というのも、「研究」の強みは、ある研究領域の問題に対して世界中の研究者が何十年もかけて分担して取り組み、漸進的に解決していける点にあるからです。別の言い方をすると、既存の研究群に位置づけられない研究はほとんど価値がありません。
たまに先行研究を調べずに自分のやった研究知見だけをアピールする人や、数本の先行研究の批判をしてすぐに自分の研究の話に移り、結局大きな研究群の何に貢献したのか不明な人を見かけます。もちろん発表者が自分の研究をその領域の研究群に位置づけなかったとしても、誰かがレビュー論文を作る際にあなたの研究を研究群に位置づけてくれる可能性はあります。
しかし、これは僕が肌で実感したことですが、自分で研究群の全体像を提示した上で自分の研究を位置づけ、他の研究(者)とどのように関連するのかを提示できれば、一気に発表の場が活性化します。そして、これも体感ですが、この「チーム感」が作れると、それぞれの研究領域を分担している聴衆から、その研究領域における大きな目標達成に結びつく建設的な質問やコメントをしてくれる率が高くなります(もちろん研究に突っ込みどころがなければの話ですが)。また、自分の研究の強み(聴衆との違い)もきっちりと伝えことになるので、コラボレーションできる可能性も高まります。しかもこれはアカデミックな場に限った話ではありません。特に僕のような教育の分野では、実践者とのチームを作ったり、産学連携のチームを作ることは必須になってきています。この点でもチーム感を作ることは重要だといえるでしょう。

■研究発表の場で「チーム感」を作る方法

では、どうやったら研究発表の場でこの「チーム感」を作れるのでしょうか。ポイントは「チームを知ること」と「チームと自分の関係性を示すこと」の2つです。

(1)事前に作りたいチームの構成状況を知っておく

これは研究における最も基本的な作業で、いわゆる先行研究のレビューに当たる部分です。より多くの聴衆をチームに巻き込むには、より広い範囲の先行研究を調べ、その構成メンバーを知る必要があります。つまり、自分の研究と直接関係なくても興味を持って自分の研究領域の論文を調べておくことがポイントになります。
また、研究者が集まる場以外で発表する際は、自分の研究領域の先行研究調査だけでは不十分です。例えば教師が集まる場であれば、授業の制約や広く教師が悩んでいることを知っておくことが大事ですし、企業の人が集まる場であれば会社の仕組みや今社会で重視されていることを知っておくことが大事です。そこで、普段から学校に足を運んだり、教師にインタビューして学校教育の状況を知ったり、企業の人と交流して会社の仕組みや今注目されている社会的動向を知っておくことがポイントになります。また、自分の専門でない領域でも臆さずにどんどん参加して、自分の肌で様々なチームの構成状況をイメージできるようにしておくことも大事です。

(2)チーム感を意識させる発表をする

下調べができたら、それを最大限に活用しながらチーム感を意識させる発表を行います。ポイントは導入と考察の部分です。
導入部分では、その研究発表の場に集まっている人の属性を考慮に入れたり、事前に調べた領域の知識を利用して共通の大きな研究目標と自分の研究の立ち位置を話すことがポイントです。例えば僕は「歴史を現代に転移させる力を育成する高校生向けの教材開発」を行っているのですが、高校の教師が多い場では最初に高校のカリキュラムの話を振って自分の教材を使うタイミングを話したり、小中高の子どもの思考力に関心のある研究者が多い場では小中高で求められている思考力の連続性や違いを話してから本題に入るようにしています。また、メディア系の研究者が多い場ではメディアの種類を振って自分のメディアのタイプを話したり、歴史学者が多い場では歴史哲学の話をしたこともあります。もし発表時間が長いのであれば、「背景」の最初の大きな話としてこの部分のスライドを1枚作成することをオススメしますが、時間の制約があってスライドを入れる余裕がない場合でも、タイトルを話す前に口頭で軽く触れておくと良いと思います。また、学会以外の場で発表する場合は、この導入部分をより丁寧に話しておかないとチーム感が出なくなるのでより注意が必要です。これらの導入部分の説明によって、まずは「チームの枠」を意識させることができます。

 チームの枠ができたら、次に自分の研究知見がそのチームにどう還元するかを提示するのがポイントになります。これは主に「考察」で行います。研究発表の場合、考察では知見をより詳細に分析するミクロなベクトルと、自分の研究知見が研究群にどう還元されるかを検討するマクロなベクトルの2つがありますが、チーム感を作るには特に後者のベクトルが重要です。学会発表であれば事前に調べていた自分の専門領域に還元するだけで十分ですが、より多様な人が集まる場での発表の場合、もう一工夫する必要があります。まず、聴衆は徐々に発表者の研究に意識化しているはずなので、最初に全員の視点をメタに戻すフリが必要になってきます。そして次に、自分の研究知見で使った学術用語を、事前に調べていた他分野での用語に翻訳し、チームの枠内にある複数の領域(共通の大きな研究目標に対して分担している部分)を繋げる仕込みをします。そして最後に、チームの枠内にある複数の領域同士の関連性を考察し、自分の研究が貢献できるポイントや、逆に自分の研究の限界点を話します。例えば教師が多い場合、僕は考察の部分ではこんな風に話します。

「さて、歴史を現代に転移させる力を育成する高校生向けの教材開発の話をしてきましたが、ここで最初に話した歴史教育のカリキュラムの中で、この知見がどう位置付くかを考えてみたいと思います。背景でも説明したように、従来の歴史学習の先行研究では歴史の分析や解釈を支援する教材は開発されてきましたが、学習指導要領で重視されている「活用」の部分を支援する教材はほとんどありませんでした。私の発表では「転移」という用語を使っていますが、これは学習指導要領で重視されている「活用」に近い用語です。そのため、歴史教育のカリキュラムの中の「活用」の段階に提示する教材の設計理念やインストラクションの点で貢献ができると思います。ただし、教師がどうファシリテートしうるか、生徒同士をどうグルーピングするか、前後の授業はどうしたら効果的なのかはわかっていませんので、そこが本研究の限界点です。」のような話し方です。また、もし複数の領域の人が聞いていて、かつ時間に余裕があるならば、他の領域に対する別の考察を何度か行うようにしています。実際、2012年では様々な領域の人とチームを組めるようになりました。

研究は個人では力を発揮しません。研究者に対してでも、実践者に対してでも、社会人に対してでも、チームを組めるかどうかが非常に重要な時代になっています。今後も色々な人とより大きな目標を達成していければと思っています。

「良い疑問が生まれたか」という評価軸

最近の教育界では学習目標が高度になっている関係で、学習内容を評価するのが難しくなっています。ゲームを使った学習、ワークショップ、アクティブ・ラーニング、カフェ的なイベントなどをやられている方や、「創造性」や「生きる力」を評価しようとしている人にとっては、身に覚えのある悩みじゃないでしょうか。

この原因はシンプルで、
・学習効果がテストで測定できない
・将来に学習効果が発揮されるので活動直後だと測定できない
の2つが主な原因だと僕は分析しています。

僕の研究でも高度な歴史学習の効果を期待しているので、評価方法どうしよっかなーとよく悩んでいるのですが、McCallの”Gaming the Past”という本を読んでいて面白い評価方法を見つけました。この著者は、中学3年生に”Rome: Total war”というシミュレーション・ゲームを使った授業を行ったらしく、「どうやって学習効果を測定するんだろう?」と読み進めていると、彼はその授業後に出た生徒の疑問を列挙しながら、こんな記述を続けています。

「歴史をゲームで提示した時には、生徒達は歴史の専門家がするような疑問を出すことができた。紙の資料を提示した時や講義の時に、こんな疑問を出すだろうか?」

本人も書いているように実際の所は実験してみないとわかりませんが、確かに出てきた疑問の質は高い印象があって、少なくとも僕が中学の頃に受けた講義型の授業じゃこんな疑問出ねぇなと思いました。後、僕の経験でも、ゲームやワークショップをした後は、とても良い疑問や疑問が浮かんでいる印象があったので、なかなか説得力のある評価方法だなと思いました。

創造性を評価する場合でも、「生きる力」を評価する場合でも、学習効果そのものを評価することは難しいですが、その発端となる「良い疑問」はプログラム直後に出てきやすいので、「良い疑問→高度な学習効果」というロジックを作って評価軸にすることは有効かもしれません。具体的には、プログラム後にその領域の専門家が作る疑問と同じような疑問を生み出しているか(この基準に関してはまた別のブログで紹介したいと思います)という観点で評価を行うことなどが考えられます。

この評価軸を使うと講義に比べてどんな差が出るのか、一度研究で扱ってみたいと思っています。 

参考文献:McCall, J.(2012)”Gaming the Past: Using Video Games to Teach Secondary History”